表現世界旅行:草原が育んだ魂の表現、モンゴルの芸術

こんにちは。
広大な草原を馬で駆け抜け、厳しい自然と共存しながら独自の文化を育んできたモンゴル。皆さんはこの国にどのようなイメージをお持ちでしょうか?遊牧民の暮らし、勇壮なチンギス・ハーン、雄大な自然、それとも朝青龍関のような力強いお相撲さんでしょうか?

多くの方が抱くであろう、これらのイメージは、モンゴルという国の本質の一端を捉えています。しかし、モンゴルの魅力はそれだけにとどまりません。彼らは、時に弾圧され、時に世界を席巻しながらも、決して途絶えることのなかった「表現を愛する力」を育んできました。その力は、読書、歴史、身体表現、演劇、そしてあらゆる創造活動に情熱を注ぐ私たちに、深い共感と新たなインスピレーションを与えてくれるはずです。

モンゴルという国の壮大な歴史をたどりながら、彼らがどのようにして「表現を愛する力」を育んできたのか、今回は私なりにお調べしてみました。

厳しい大自然と激動の歴史の中で花開いた、モンゴルの多様な表現の世界を一緒に旅してみましょう。

ちなみにこの記事はめっちゃ長いです。ゆっくり読んでね。

激動の歴史が育んだモンゴルの精神性:遊牧文化から現代社会へ

モンゴルは、その歴史を通じて遊牧文化を基盤としつつ、外部からの強い影響を受けながら独自のアイデンティティを形成してきました。古代の遊牧国家の興隆から現代に至るまでの主要な歴史的流れを追うことで、彼らがどのように「表現を愛する力」を育んできたのか、その根源を探ります。

遊牧国家の誕生とモンゴル帝国の興隆:機動力と適応の時代

紀元前6世紀から16世紀にかけて、ユーラシア大陸の広大な草原地帯では、強大な騎馬遊牧国家が次々と興隆しました。紀元前6世紀には匈奴がモンゴル高原を支配し、中国王朝を脅かす存在となります。その後も柔然、突厥といったトルコ系の遊牧国家がこの地を支配し、彼らは厳しい自然環境に適応するため、移動と家畜の管理に特化した生活を送る中で、高い機動力と強靭な身体能力を培っていきました。

13世紀初頭には、テムジン(後のチンギス・ハーン)がモンゴル高原の諸部族を統一し、1206年にモンゴル帝国を建国します。チンギス・ハーンの孫であるフビライは、1271年に国号を「元」と定め、1279年には南宋を滅ぼして中国全土を統一支配しました。モンゴル帝国は、独自の統治機構や駅伝制(ジャムチ)の整備を通じてユーラシア大陸規模の東西交易を促進し、文化や技術の融合をもたらします。しかし、1368年に元が明に大都を追われると、モンゴル人はモンゴル高原に退き「北元」と称しますが、1388年にはフビライ系統の大ハーンが殺害され、元朝は終焉を迎えました。この時代は、モンゴルが自らの力を最大限に発揮し、世界を舞台にその存在感を示した、まさに「表現」が世界を席巻した時代と言えるでしょう。

清朝支配と独立運動の胎動:抑圧と抵抗の時代

1634年、モンゴル勢力は女真族が建国したに服属することとなります。清朝はモンゴル遊牧社会の特性に合わせた統治政策をとり、モンゴル語での文書行政も行いましたが、漢人商人の活動増大によりモンゴル経済は経済的支配に組み込まれ、貧困層が増加するなど経済的崩壊も招きました。

1911年の辛亥革命の際、清朝の支配下にあった外モンゴルの貴族諸侯は、活仏ジェブツンダンパをハンに擁立し、独立国家を形成します。しかし、中国の圧迫により独立は名ばかりとなり、その後ロシア革命の影響を受けて民族主義的傾向が強まりました。スヘ=バートルやチョイバルサンらがモンゴル人民革命党を結成し、ソビエト・ロシアの支援を受けて勢力を拡大。1921年11月にはモンゴル・ソビエト友好条約が結ばれ、1924年7月には共和制が宣言され、モンゴル人民共和国が成立しました。これによりモンゴルはソ連に次ぐ世界で2番目の社会主義国となり、ソ連の政治・経済圏に組み込まれていくことになります。この時代は、モンゴルが外部勢力の支配下に置かれ、自らの「表現」が抑圧される苦難の時代でしたが、その中でも独立への情熱を燃やし、新たな表現の道を模索し始める時期でもありました。

社会主義時代の文化と民主化:変革と解放の時代

モンゴル人民共和国は、1929年から社会主義計画経済を導入し、強制的な牧畜の集団化やラマ教(仏教)の弾圧が行われました。1937年から1939年にかけては、ソ連の支援を受けたモンゴル共和国は仏教僧を大量に処刑し、多くの寺院を破壊しました。伝統的なモンゴル文字も廃止され、キリル文字が導入されるなど、ソ連の強い影響下で文化、教育、社会規範に至るまで、その構造が根本的に再構築されます。この時代、モンゴルの伝統文化や表現は厳しい統制下に置かれ、多くのものが失われましたが、それでも人々の心には、抑圧された表現への渇望が残り続けました。

1980年代末、ソ連や東欧諸国の変革の影響を受け、モンゴルでも民主化運動が高まります。1990年3月、社会主義時代の支配政党であった人民革命党は一党独裁を放棄し、同年7月には初の自由選挙が実施されました。1992年には新憲法が施行され、社会主義は名実ともに放棄され、国名も「モンゴル人民共和国」から**「モンゴル国」へと変更**されました。民主化はモンゴルに表現の自由と市場経済への移行をもたらしましたが、同時に経済的混乱や社会的不安を伴いました。しかし、この変革の時代は、モンゴルが失われた伝統文化を再評価し、新たな表現の可能性を追求する大きな転機となったのです。

モンゴル人の「表現」の源泉:国民性、精神性、そしてアートの力

激動の歴史を乗り越えてきたモンゴル人が育んできた「表現」は、彼らの国民性、精神性、そして多様なアートの中に息づいています。

大自然に育まれた国民性:自立と協調のハーモニー

モンゴル人は歴史的に遊牧民文化が根付いており、自然と共存する生活様式が特徴です。遊牧生活を通じて、協調性、集団意識、勤勉さ、責任感が強く、任された仕事をやり遂げる姿勢が育まれました。同時に、新しい環境への適応力や柔軟性が高く、自己表現が豊かであるとされます。

遊牧民は「自分のことは自分でやれ」「他人に頼るな」という自立の精神を重んじ、子供の頃からそれを教え込むそうです。また、移動が日常であるため、モノを溜め込まず、簡素さを重んじる価値観が形成されました。この自立の精神は、厳しい自然環境の中で家畜と共に移動し、家族単位で自立して生きていくことを基本とする遊牧生活で強く育まれる一方で、ゾド(冷害)のような自然災害や外敵からの防衛、あるいは巻狩りのような大規模な共同作業においては、家族や仲間との「協調性」と「集団意識」が不可欠でした。この二面性が、モンゴル人の国民性の根幹を形成しており、現代の都市化が進む中でも、その柔軟性や適応力、そして自己表現の豊かさとして現れています。彼らの「失敗を恐れずに果敢に行動する」熱量も、遊牧生活で培われた「やれば絶対にできるはず」という自己信頼に由来すると解釈できます。

興味深いことに、モンゴルでは現在も約40万人、国民の約12%が遊牧生活を続けています。彼らは伝統的なゲルで、馬、牛、羊、山羊、ラクダの五畜と共に広大な草原を季節移動します。しかし、その生活は変化のただ中にあり、経済的機会を求め都市部へ移住する遊牧民も多い一方で、太陽光発電やスマートフォンといった最新テクノロジーを積極的に取り入れ、変化する社会の中で生き抜いています。Facebookの利用率は全人口の81%に達しており、遊牧民にとっても重要なコミュニケーションツールです。伝統を守りつつ、新たな技術を取り入れる柔軟性も、モンゴル人の「表現を愛する力」の一端と言えるでしょう。

家族の絆と社会のルール:「水と木は近い方が良い、骨と肉は遠い方が良い」

モンゴル社会では、家族や年長者を尊敬することが非常に重要視されています。訪問客は温かく迎えられ、食事やお茶がふるまわれるなど、もてなしの文化が根付いています。家族の行事や事情は非常に重要視され、家族のために懸命に働くことが高いモチベーションに繋がります。モンゴルの家族は小家族が単位であり、子供が結婚すると「独立」することが親の基本的な「義務の達成」とみなされます。

モンゴルの家族観は、遊牧生活における移動という物理的制約と深く結びついています。ゲルという移動式住居の特性上、夫婦と未成年の子からなる小家族が基本単位となり、成長した子供は次々と独立して新しい家族を形成します。これは、親族間の軋轢を避け、自立を促すという遊牧民の知恵から生まれたものであり、**「水と木は近い方が良い、骨と肉は遠い方が良い」**という諺にも象徴されています。この自立の精神は、子育てにおいても「自分の身は自分で守る」という教えに繋がり、他者に頼ることを「迷惑」と捉える文化へと発展しました。同時に、共同体としての協調性や年長者への敬意、そして客人への温かいもてなしは、厳しい環境下での相互扶助の必要性から生まれた社会規範であり、現代社会においても強く残るモンゴル人の特性となっています。

精神の二重奏:仏教とシャーマニズムが織りなす神秘の世界

モンゴルの精神生活は、仏教シャーマニズムに深く影響されてきました。仏教は紀元前2世紀に伝来し、16世紀に広まり、活仏ザナバザルがその普及に貢献しました。シャーマニズムは、祖先崇拝、自然崇拝、儀式的な癒しを基盤とし、シャーマン(böö)やシャーマンの女性(udgan)が人間と精霊の世界の仲介者として活動します。シャーマンの衣装や儀礼は人々を驚かせ、畏敬の念を抱かせ、部族ごとに細かなしきたりが異なります。モンゴルのツァム舞踊は、チベット仏教のチャム舞踊に起源を持つものの、16世紀にモンゴルの仏教僧が独自の要素を取り入れて適応させたものであり、仏教とプレ仏教のシャーマニズム的要素が融合しています。

ソ連時代には仏教とシャーマニズムは厳しく弾圧され、多くの寺院が破壊され、宗教的実践が隠蔽されましたが、1990年代の民主化以降、復興の動きが見られます。モンゴルの精神世界は、古くからのシャーマニズムと、後に伝来し広まった仏教が複雑に絡み合い、相互に影響を与えながら発展してきました。ツァム舞踊はその典型であり、仏教の教えとシャーマニズムの儀礼的要素が融合した形で継承されたのです。この「精神の二重奏」こそが、モンゴルのアートの深遠な魅力を生み出す源となっています。

伝統と革新が融合するアートの世界:美術、音楽、そして身体表現の躍動

モンゴルの文化芸術は、その歴史的変遷を色濃く反映しています。伝統美術、音楽、そして身体表現は、それぞれが独自の進化を遂げ、現代のモンゴル文化を彩っています。

大草原に花開いた伝統美術:仏教と遊牧の融合

モンゴルの美術は、音楽、舞踊、衣装、工芸品、文学といった独自の要素を持つ多角的な文化を形成しています。特に、16世紀以降に深く浸透した**チベット仏教(ラマ教)**の影響を強く受け、**タンカ(仏画の掛軸)**や仏教彫刻が発展しました。タンカは、厳格な作法と高い技術を要する仏教美術の重要な形式です。

ザナバザル(1635-1723)は、17世紀のモンゴル文化ルネサンスを牽引した多才な人物として特筆されます。彼は彫刻家、画家、建築家、詩人、衣装デザイナー、学者、言語学者として知られ、仏教美術の発展に大きく貢献しました。彼の芸術作品は、仏教をハルハ社会のあらゆる階層に広め、社会や政治の発展に強い影響を与え、モンゴル部族を統一する役割も果たしたのです。伝統工芸品としては、遊牧生活に密着したフェルトや革を用いたものが一般的であり、カシミヤ製品、民族衣装デール、伝統靴なども含まれます。

モンゴルの伝統美術は、遊牧生活という独自の環境と、仏教という外来文化が融合することで、多様な表現形式を生み出しました。タンカや仏教彫刻は、仏教の教えを視覚的に伝えるための重要な媒体となり、その制作には高度な技術と宗教的知識が求められました。ザナバザルのような人物は、この仏教美術をモンゴル社会に根付かせ、国民的アイデンティティを統一する役割も果たしたのです。一方で、フェルトや革製品といった工芸品は、遊牧生活に密着した実用性と美意識が結びついたものであり、モンゴル美術が単なる宗教的表現に留まらず、生活文化と深く結びついていることを示しています。

抑圧を乗り越えた表現の自由:社会主義リアリズムの影響と現代美術の台頭

1940年代から1992年までの社会主義時代、モンゴルの美術はソ連の社会主義リアリズムの影響を強く受けました。これにより、ヨーロッパ写実絵画の技法や油絵が導入されたのです。芸術家は検閲を受け、政府は社会主義の理想や過去の英雄を称揚する作品の制作を奨励しました。

社会主義リアリズムは、モンゴル美術に西洋の写実主義と油絵という新たな技法をもたらした一方で、表現の自由を厳しく制限しました。芸術は国家のプロパガンダの道具と化し、社会主義の理想や英雄を称えるという明確な目的が課されたのです。これにより、伝統的な仏教美術や歴史的テーマは抑圧されましたが、同時に、それまで存在しなかった写実的な人物画や風景画といったジャンルが発展しました。これは、政治的制約が芸術の方向性を決定づける一方で、新たな表現形式や技術の導入を促すという複雑な影響を示しています。

1990年代の民主化以降、モンゴルの美術界は表現の自由を獲得し、西洋の現代美術、特にインスタレーションなどのメディアアートが導入されました。Green Horse、Sita Art、Ego Art、New Art Associationといった新しい芸術家協会が設立され、自由な表現を促進したのです。多くの芸術家が、社会主義時代に抑圧されていたモンゴルの文化遺産やアイデンティティの探求に回帰し、チンギス・ハーンの像の建立など、過去の再評価が進みました。

民主化は、モンゴル美術に社会主義リアリズムからの解放と、グローバルな現代美術への接続をもたらしました。これにより、芸術家たちは抑圧されていた民族的アイデンティティや、社会主義時代には禁じられていたチンギス・ハーンといった歴史的人物への関心を再燃させ、それを現代的な表現で探求するようになったのです。インスタレーションのような新しいメディアの導入は、モンゴルの芸術家が国際的な潮流に参入する契機となり、S. ガンズグやA. オチルボルドといったアーティストが国際的な舞台で活躍するようになりました。これは、モンゴルの現代美術が、過去の遺産を再評価しつつ、グローバルな芸術言語を取り入れ、独自の表現を確立しようとしている過程を示しています。

大草原の歌声:魂を揺さぶる伝統音楽と革新的なサウンド

モンゴル音楽は遊牧民の生活に深く根差しており、馬と大草原が主要なテーマです。伝統楽器には、馬頭琴(モリン・フール)ホーミー(喉歌)オルティン・ドー(長い歌)、トプショール、口琴などがあります。

馬頭琴は、日本の絵本「スーホの白い馬」でも知られる2本の弦を持つ擦弦楽器で、その音質は柔らかく奥行きがあり、「草原のチェロ」とも称されます。2003年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。ホーミーは、1人の歌手が2つの異なる音高を同時に発声する独特の歌唱法で、「喉声」を意味します。鳥の鳴き声、風の音、川の流れ、滝の音など自然の風景を表現するといわれ、2010年にユネスコ無形文化遺産に登録されています。オルティン・ドーは、「長い歌」という意味の民謡で、自由なリズムで声を長く引き延ばして歌われます。祝い事の席で歌われるなど、モンゴルの伝統音楽において特に重要で高い地位を占めています。

モンゴルの伝統音楽は、遊牧民の生活様式と大草原の自然環境から直接的なインスピレーションを得て発展してきました。馬頭琴の馬の頭の装飾や、ホーミーが自然の音を模倣する点は、人間と自然、そして家畜との密接な関係を象徴しています。これらの音楽は単なる娯楽ではなく、遊牧民の精神性、歴史、そしてアイデンティティを表現する手段であり、ユネスコ無形文化遺産に登録されたことは、その普遍的な価値と継承の重要性を示しています。社会主義時代には検閲や改変の対象となりましたが、その本質的な精神性は現代にも受け継がれ、音楽家たちによって再解釈されているのです。

社会主義時代には西洋音楽が禁止されていましたが、1990年代の民主化以降、ロック、ポップス、ヒップホップといった西側の音楽が急速に流入しました。特に**「The HU」**は、喉歌や馬頭琴といった伝統楽器と西洋のロックを融合させた「フンヌ・ロック」を確立し、世界的なヒットを生み出し、チンギス・ハーン勲章を授与されました。彼らの音楽は、自然への愛、祖先や歴史への敬意、チンギス・ハーンといったテーマを扱い、伝統と現代、東洋と西洋の融合を目指しています。ヒップホップは、特に若者の間で圧倒的な支持を得ており、社会批判や政治腐敗を鋭く歌い上げるラジカルな歌詞が特徴です。

社会主義時代の検閲が終わり、グローバルな音楽ジャンルが流入したことで、モンゴルの現代音楽は急速に多様化し、伝統音楽との融合が進みました。「The HU」の「フンヌ・ロック」は、伝統楽器とロックを組み合わせることで、モンゴルの歴史やアイデンティティを世界に発信する新たな手段となり、若者の伝統楽器への関心を高める効果も生んでいます。ヒップホップが社会批判の強力なツールとなっている点は、民主化後の社会経済的課題に対する若者の声の表れであり、音楽が単なる娯楽を超えて、社会変革の担い手となっていることを示唆しています。

身体表現の魂:ナーダム祭から世界に羽ばたくアスリートたち

ナーダムは「遊び・祭り」を意味し、モンゴルの遊牧民族が古くから開催してきた祭典です。中国の古代史料には、匈奴が夏に競馬、相撲、弓技を行っていたと記されています。1206年にチンギス・ハーンが即位し、モンゴル帝国の建国記念としてナーダムを定期的に開催し、国民的な祭りとして祝うようになりました。現代のナーダムは、1921年のモンゴル独立革命を記念して毎年7月11日に開催されます。ナーダムでは、モンゴル相撲、弓技、競馬の三大伝統競技が行われ、「男の三種の競技」と呼ばれています。2010年にはユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。

ナーダム祭は、古代の軍事的鍛錬や儀礼に起源を持ちながら、チンギス・ハーンによる帝国建国を記念する国民的祭典へと発展し、現代では独立革命を祝う行事となっています。その中核をなす相撲、競馬、弓技は、遊牧民が厳しい自然環境で生き抜くために不可欠な身体能力と精神力を象徴しており、単なるスポーツ以上の文化的意義を持つのです。ユネスコ無形文化遺産への登録は、ナーダムがモンゴル人の国民的アイデンティティの核であり、遊牧文化の継承に不可欠な存在であることを国際的に認めたものと言えるでしょう。これは、伝統的な文化が現代社会においてどのように再評価され、維持されているかを示す好例です。

現代スポーツでは、レスリング、柔道、ボクシングが強く、オリンピックでもメダルを獲得しています。モンゴルは1964年の東京オリンピックで初参加し、レスリングで初のメダル(銅)を獲得しました。ナーダムで勝利することは、モンゴルの男性にとって民族の誇りであり、国民的英雄として称えられます。オリンピックでのメダル獲得は、国際社会におけるモンゴルの存在感を高め、国民の連帯感を醸成する重要な役割を果たしています。ムンフバトやトゥブシンバヤルのような選手は、その活躍を通じて国民的英雄となり、モンゴル人の強さと粘り強さを体現しています。これは、スポーツが国家のソフトパワーとして機能し、国際交流や異文化理解の一つの手段ともなっていることを示しています。

世界を魅了するコントーション:多様な身体表現とモンゴルの「ウダン・ヌガルハ」

コントーション(軟体芸)は、人間の身体が持つ驚異的な柔軟性を駆使し、通常では考えられないようなポーズや動きを披露するアクロバットの一種です。その歴史は古く、特定の文化に限定されることなく、世界各地に様々な形で存在しています。

世界各地に見られるコントーションの多様性

コントーションの源流は、古代の人々が身体能力を探求し、儀式や娯楽の中で柔軟性を披露したことに遡ります。

  • インドのヨガ:古代インドで生まれたヨガのアーサナ(ポーズ)には、コントーションに通じる高度な柔軟性を要求するものが多く、精神統一や身体制御の手段として発達しました。
  • 古代エジプト・ギリシャ・ローマ:壁画やレリーフ、記述の中には、儀式的な舞踊や娯楽として、柔軟な身体を持つパフォーマーが登場する様子が描かれています。
  • 中国の雑技:中国では紀元前後の漢代には既に「柔術(rou shu)」と呼ばれる柔軟技が「雑技(百戯)」の一部として存在していました。現代の中国雑技団の演目としても、柔術は欠かせない要素です。
  • ヨーロッパ・アメリカのサーカス:19世紀以降、特にアジアからのパフォーマーによって、コントーションはヨーロッパやアメリカのサーカスに紹介され、人気を博しました。「ゴム人間」などとも称され、見る者を驚かせ、魅了する演目として定着しました。

このように、コントーションはそれぞれの文化や時代の中で独自に発展し、身体表現の多様性を示してきました。

モンゴルのコントーション:「ウダン・ヌガルハ」の真髄

中でも、モンゴルのコントーションは**「ウダン・ヌガルハ」**(モンゴル語で「長い時間曲げる」の意、または単に「曲げる」)と呼ばれ、数世紀にわたる歴史と独自の文化的な背景を持つ芸術として世界的に高く評価されています。特に、その多くが女性のパフォーマーによって演じられる点も特徴です。

遊牧民の生活から生まれた柔軟性

モンゴルのコントーションの起源は、遊牧民の厳しい生活様式と深く結びついていると考えられています。広大な草原を移動し、家畜を管理する遊牧生活では、常に身体能力が試されます。馬に乗る、ゲルの中で限られた空間で生活する、家畜の世話をするなど、日常の動作を通じて、自然と身体の柔軟性やバランス感覚が養われたと推測されます。部族間の集まりや祭り(特に国民的祭典であるナーダム)では、個人の身体能力を披露する機会がありました。こうした場が、やがて洗練された身体表現へと昇華されていったと考えられます。家畜の動きや草原の風、草の揺らぎといった自然の要素を模倣した、流れるような優雅な動きやポーズが特徴です。正式な訓練機関が整う以前は、主に家族内や師弟関係において、口頭伝承と実践を通じて秘術が伝えられてきました。これは、遊牧民の知識や技術が代々受け継がれてきたのと同様の方法です。

文化的・歴史的背景

モンゴルのコントーションは、単なる身体技に留まらず、モンゴル文化の精神性や美意識を内包しています。

  • 優雅さと強靭さの融合:モンゴルのコントーションは、驚異的な柔軟性だけでなく、その動きの流麗さと優雅さが高く評価されます。同時に、厳しい訓練に裏打ちされた強靭な精神力と身体能力が求められる、二面性を持つ芸術です。
  • 女性の活躍:モンゴルでは、コントーションの分野で特に女性が目覚ましい活躍を見せています。これは、伝統的な遊牧社会における女性の家庭内での重要な役割や、社会主義時代に推進された男女平等の教育機会が、彼女たちの才能を開花させる土壌となったと考えられます。多くの女性パフォーマーが国際的な舞台で「世界一」と称されるほどの技術と表現力を披露しています。
  • 現代への継承と発展:現在のモンゴルでは、モンゴル国立サーカス学校などでコントーションが専門的に指導されており、伝統的な技術が体系的に継承されています。同時に、現代的な演出や音楽と組み合わせることで、新たな表現の可能性も追求されています。国際的なサーカス団やアートフェスティバルからのオファーも多く、モンゴルの文化外交の一翼を担っています。

モンゴルのコントーション「ウダン・ヌガルハ」は、身体の限界に挑む普遍的な人間の探求と、モンゴルの大地に育まれた独自の文化が融合した、まさに「生きた文化遺産」と言えるでしょう。


世界と交錯するモンゴルの表現:日本との絆、そして多様な文化交流

モンゴルの表現は、隣国との深い繋がりだけでなく、「第三の隣国」政策を通じて世界へと広がり、多様な文化交流を生み出しています。

遠くて近い国、日本:相撲と仏教が繋ぐ意外な共通点

モンゴルと日本は、地理的に離れているものの、いくつかの共通点と相違点が存在します。

共通点

  • 文化受容の姿勢:日本と同じく、高度な西からの異文化に弱いという共通点があり、文化・文明の受容方法に共通点が多いとされます。
  • 相撲:モンゴル相撲と日本の大相撲は、力技を中心とする格闘技として共通点が多く、特に大相撲はモンゴル相撲の改革に際し頻繁に参照されます。現在、多くのモンゴル人力士が大相撲界で活躍しており、相撲文化は両国の文化交流の中心となっています。
  • 言語:モンゴル語と日本語は文法的に似ており、助詞の使い方も類似しています。
  • 仏教:両国ともにチベット仏教(ラマ教)を信仰する文化があり、仏教説話における「聖人が現世に奇跡をもたらす」という点で共通性が指摘されます。

相違点

  • 食文化:モンゴルは乳製品と肉類(特に羊肉)が主食であり、油を多用します。寒い国であるため野菜を食べる文化はあまりありません。一方、日本は米を主食とし、肉よりも魚が多く、油が少なく淡白な味付けが特徴です。
  • 言語:発音が同じで意味が全く異なる単語が存在します(例:「やま」→山羊、「もり」→馬)。また、科学専門用語の由来が日本では英語ベースであるのに対し、モンゴルではロシア語由来が多いです。
  • 歴史的経緯:13世紀後半にはモンゴル帝国(元朝)が日本に遠征(元寇)し、二度にわたり九州を襲撃した歴史があります。

日本とモンゴルは、地理的に離れてはいるものの、仏教の受容や相撲文化といった共通の基盤を持つ一方で、遊牧と農耕という根本的に異なる生活様式が、食文化や国民性、言語の細部に至るまで大きな相違を生み出しています。特に、元寇という歴史的経験は、両国の関係性に複雑な影を落としてきましたが、現代においては大相撲におけるモンゴル人力士の活躍のように、スポーツを通じた深い文化交流が新たな友好関係を築いています。これは、歴史的背景や地理的環境が文化形成に与える決定的な影響と、それを乗り越えて現代的な交流が深まる可能性を示唆しています。

隣国との深い繋がり:中国、ロシア、中央アジアとの歴史と文化

中国との文化交流

モンゴルと中国(特に内モンゴル自治区)のモンゴル民族間では、歴史的に複雑な関係を経てきましたが、近年は文化交流が活発です。内モンゴル自治区のモンゴル族は、インターネットやテレビを通じてモンゴル国の歌や舞台劇、テレビ番組を積極的に受容しています。モンゴル国の歌手や劇団が内モンゴルを訪問し、コンサートや舞台劇を通じて文化交流が行われています。元朝時代には、イスラームの暦法や中国絵画の画法がモンゴル帝国の支配下で東西に伝わり、細密画に影響を与えるなど、大陸規模での文化交流が促されました。

ロシアとの文化交流

モンゴルはソビエト連邦の強い影響下に長くあり、ロシア語が教育の主要言語となり、多くのモンゴル人がロシア語を流暢に話します。ロシア文化の影響は、ピクルスの摂取やピクルス液を飲む習慣など、日常生活の細部にまで及んでいます。仏教はソ連圏社会主義諸国における民主化が発生した1990年頃から復興し、現在でも多くの仏教寺院が信仰を集めています。

中央アジア諸国との歴史的・文化的繋がり

モンゴルと中央アジア諸国は、ユーラシア大陸の内陸地帯に位置し、歴史的・文化的な横の繋がりが深いです。歴史的に東西交流の中継地帯として重要な役割を果たし、モンゴル帝国と何らかの繋がりを持つ民族が多いです。現代においても、遊牧文化に根ざした口承文芸の伝統など、共通の文化的要素が見られます。

「第三の隣国」政策とグローバルな舞台:世界に広がるモンゴルの表現力

モンゴルの外交方針の基本は、隣国である中国とロシアとのバランスの取れた関係を維持しつつ、両国に過度に依存することなく**「第三の隣国」**との関係を発展させることです。特に日本との関係は重視されており、様々なレベルでの交流を通じて二国間関係を強化しています。この「第三の隣国」には、日本、米国、EU、インド、韓国、トルコなどが含まれ、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値を共有する国々との緊密な関係を追求しています。

民主化後のモンゴルは、経済的・文化的に多様な国々との交流を深めています。特に、韓国との経済的結びつきは不可欠なレベルに達していますが、それに伴う社会問題(性観光、マフィア活動)が、強い反韓感情や文化摩擦を引き起こすこともあります。一方で、モンゴル国立サーカスやビエルゲーダンスのように、伝統的な舞台芸術が国際的な舞台で高く評価されていることは、モンゴル独自の文化が国境を越えて普遍的な魅力を持ち、文化外交の重要なツールとなっていることを示唆しています。モンゴル国立サーカスは、アクロバット、コントーション、ジャグリングなどを特徴とし、世界各国で公演を行っています。伝統的なビエルゲーダンスは、その美しさ、優雅さ、文化的真正性で世界中で認識と影響力を獲得しています。モンゴルの表現者たちは、自国の豊かな文化を世界に発信し、国際舞台でその存在感を高めているのです。

モンゴルの舞台芸術:遊牧文化、宗教、社会変革が織りなす表現の歴史と現代的意義

モンゴルの舞台芸術は、その豊かな歴史と多様な表現形式を通じて、遊牧文化、自然崇拝、シャーマニズム、そして仏教といった多岐にわたる文化的要素と深く結びついて発展してきました。これらの芸術形式は、単なる娯楽に留まらず、民族のアイデンティティ、歴史、感情、社会規範を表現し、世代を超えて継承する重要な手段として機能してきました。特に、シャーマニズムと仏教は、儀式、舞踊、音楽、美術品を通じて、モンゴルの舞台芸術に顕著な影響を与え、その精神的・思想的基盤を形成してきました。

モンゴル演劇の発展と変遷:初期演劇的要素と宗教的起源

近代的な劇場の概念がモンゴルに導入される以前から、演劇的要素を含む多様なパフォーマンスが存在していました。これには、古代の狩猟舞踊、ツァム舞踊のような宗教儀式、そしてビイ・ビエルゲー舞踊に代表される自然崇拝の表現が含まれます。これらの初期の形式は、物語を伝え、共同体の歴史や信仰を表現する役割を担っていました。また、「ジャンガル」のような口頭伝承による叙事詩や、様々な民謡も、豊かな物語性と詩的な表現を通じて、聴衆に娯楽と教訓を提供する演劇的な機能を持っていました。これらの芸術形式は、モンゴル人の生活、文化、習慣、感情、知識を伝える手段として、道徳的な教訓を直接的に与えるのではなく、芸術的な表現を通じて示されていました。

近代演劇の黎明期:ダンザンラヴジャーと「遊牧民の劇場」

モンゴルにおける近代演劇の基礎は、1830年にノヨン・ホタクト・ダンザンラヴジャー(1803-1856)によって設立された**「遊牧民の劇場(Theatre of The Nomad)」**によって築かれました。この画期的な劇団には、100人以上の作家、演出家、俳優、デザイナー、技術者、音楽家が所属しており、その規模は当時としては非常に大規模でした。劇団の最も初期かつ人気のある作品の一つに、叙事詩「ムーン・クックー(Moon Cuckoo / Saran Khukhuu)」があります。この作品は、舞台装置を運ぶために20頭ものラクダが必要とされるほど大規模なもので、毎年2ヶ月間にわたって上演され、約30人の主要俳優と多くの裏方スタッフが関わっていました。

興味深いことに、この劇団の活動は、1691年以来公衆の模倣を禁じていた長年の国家法に違反していました。しかし、歴史的記録によれば、都市部以外ではこの禁止がほとんど問題視されず、むしろこの規制が知識人や貴族の間で演劇への関心を高める結果となったことが示唆されています。この事実は、モンゴル演劇の発展が、外部からの影響(例えば、ロシアからの演劇システム導入やイデオロギー的統制)と、それに対する内部的な適応・抵抗、そして最終的な独自の進化という複雑な相互作用を伴ってきたことを示唆します。ダンザンラヴジャーの時代における規制の無視は、中央集権的統制が及ばない地域での文化活動の自律性を示しており、これは文化が単に外部からの影響を受け入れるだけでなく、それを自国の文脈で再構築し、時には抵抗する能動的なプロセスであることを示唆しています。

社会主義時代における演劇の形成とイデオロギー的統制

20世紀に入ると、モンゴル演劇は国家主導の制度化へと移行します。1926年には600席の人民スタジアムが開設され、コンサートや演劇公演が行われるようになり、モンゴルが演劇芸術のプロ化に乗り出したことを示しました。その後、1931年11月には国家決議50号により「モンゴル国立劇場」が設立され、1963年5月18日には、アジアで初のオペラ専門劇場であるモンゴル国立オペラ・バレエ劇場が設立されました。これらの出来事は、モンゴルにおける演劇が、アマチュア的な活動から国家主導の制度化された芸術形式へと移行したことを明確に示しています。この制度化は、ソビエト連邦の支援による専門家育成と密接に関連しており、文化政策が芸術の発展と普及に決定的な影響を与えたことを示唆します。演劇のプロフェッショナリズムの確立は、単に技術水準の向上だけでなく、国家による文化の管理・統制、そして国民的アイデンティティの形成ツールとしての演劇の役割を強化したと考えられます。

1930年代には、ソビエト連邦の影響が劇的に強まり、ソビエトから教師が派遣され、演劇、オペラ、バレエの発展を支援しました。コンスタンチン・スタニスラフスキーのメソッドがモンゴル演劇の方向性を決定づけ、1930年代から1980年代にかけて、演劇作品は非常に強いイデオロギー的検閲の下で制作されました。レパートリーには、国内劇、国際的な古典(シェイクスピア、ゴーゴリ、チェーホフ、トルストイ、モリエール、ブレヒト、イプセンなど)、そして翻訳されたソビエト劇が含まれていました。これらの作品は、社会主義的友好、ロシアの功績、社会主義、未来の建設といった社会主義政策の重要性を強調するものでした。このような統制下では、モンゴルの歴史や歴史上の人物、宗教的・文化的伝統を演劇に反映させることは困難でした。この時代の代表的な作家として、D.ナムダグ(1911-1984)やD.バトバヤル(1941-2020)が挙げられます。1934年には、D.ナツァグドルジによる最初の近代モンゴルオペラ「ウチタイ・グルヴァン・トルゴイ(The Love Triangle)」が初演され、モンゴルの物語性と古典的なオペラ構造が融合した画期的な作品となりました。

現代モンゴル演劇の多様化と国際化

1980年代にロシアの影響が薄れると、モンゴルの新しい世代の演出家が登場し、劇作と演技の両方を豊かにしました。1989年のソビエト連邦崩壊後、モンゴルの文化・芸術は自由市場経済に適応する必要に迫られ、補助金の大幅な削減があったものの、表現の自由、平等、多元主義が確立されました。この政治体制の転換は、舞台芸術のテーマ、内容、表現形式に直接的かつ劇的な影響を与えました。社会主義時代は、芸術が国家のプロパガンダと国民統合の道具として利用され、表現の幅が制限されました。しかし、ポスト社会主義時代には、抑圧されていた民族的・歴史的テーマが解放され、芸術家たちは自国のルーツに回帰し、それを現代的な表現と融合させることで、新たな創造性を発揮するようになりました。これは、芸術が社会政治的環境の鏡であり、同時にその変革を促す力を持つことを示唆しています。

これにより、芸術家たちは再び民族的な題材や国内問題に目を向け、古典作品をモンゴル流に再解釈するスタイルが生まれました。今日では、国内の21の県都と首都ウランバートルに3種類の劇団が存在し、少数の私設劇場や独立した制作グループも活動しています。これらの劇団は、「フフデル少年物語(Story of the Boy Khukhuldei)」、「熱い土地(Hot Land)」、「蜃気楼(Mirage)」、「社会の心(Social Mind)」といった新作モンゴル劇を上演する一方で、タゴール、ロルカ、サルトル、オニール(『楡の木陰の欲望』)、ウィリアムズ(『欲望という名の電車』)といった西洋の作品も国立劇場で上演しています。伝統と現代の融合は、国民的な演劇文学とその伝統の美学的パラダイムを活性化させ、演劇を多様な視点から研究する機会を生み出しました。

近年、モンゴル演劇は国際舞台での注目を集めています。「モンゴル・ハーン(The Mongol Khan)」は、モンゴルから海外に輸出された初の演劇作品であり、ロンドンのウェストエンドでも上演されました。この作品は、フンヌ帝国の歴史的出来事、考古学的発見、伝統的な遊牧舞踊、古代フン文化の音楽を取り入れた壮大な悲劇であり、地元ではシェイクスピア作品に匹敵すると評されています。この作品は、権力闘争、不貞、欺瞞、親子の愛といった普遍的なテーマを扱い、モンゴル文化の豊かなタペストリーと深い歴史的物語性を国際的に示しています。

無言劇と仮面劇の系譜

無言劇(パントマイム)の歴史的考察と中国演劇からの影響

モンゴルにおける無言劇(パントマイム)に関する直接的な学術的資料は限られていますが、その存在と発展には中国演劇からの影響が示唆されています。歴史的証拠によれば、遊牧民のモンゴルには、ウルガ、ヒアグト、ウリアスタイ、ホヴドといった人口密集地域に多くの中国系住民が居住しており、彼らがサーカス芸、ユーモラスなパフォーマンス、そしてパントマイムを路上で披露し、多くの観客を惹きつけていたとされています。特に、ウルガのマイマー市には一つの劇場が、またウルガの中国人街には専門俳優による専用の建物で二つの劇場が常設されていました。これらの活動は、モンゴルにおける無言劇的要素の導入や発展に、中国の演劇文化が影響を与えた可能性を示唆しています。

仮面劇(ツァム舞踊)の歴史、技法、美学

モンゴルの仮面劇の最も顕著な例は、仏教の儀式舞踊である**ツァム(Cham)**です。ツァム舞踊は、チベットに起源を持つタントラ儀式であり、8世紀にインドの聖者パドマサンバヴァによって初めて演じられたとされています。この舞踊は、19世紀初頭の仏教の第三波の伝播期にモンゴルに導入され、チベット、ブータン、ラダックからの文化的要素を吸収しつつ、モンゴル独自の文化的遺産、例えばシャーマニズムや民話の英雄的役割、職人の想像力と美学を取り入れて発展しました。

ツァムは、身体の動き、宗教的な詠唱、瞑想を組み合わせ、善が悪に打ち勝つという統一されたメッセージを伝える、洗練された宗教的・文化的表現形式です。19世紀にはその発展の頂点に達し、マンチュウの支配下で仏教僧院がモンゴル文化の聖域として機能したことも、ツァムの成長に寄与しました。しかし、1930年代には無神論を掲げる革命党によって僧院が閉鎖・破壊され、ツァム舞踊も禁止されましたが、1990年代のソビエト連邦崩壊後、宗教的自由が回復され、ツァムも復活しました。

ツァム舞踊の最も印象的な特徴は、精巧に作られた仮面と衣装です。これらの仮面は、強力な神々、神話上の生物、守護精霊などを表し、その鮮やかな色彩と複雑なデザインは、仏教の教えの様々な側面を象徴しています。例えば、治癒の神は白、知識と長寿の神は黄、富の神は赤、征服の神は黒の仮面を着用します。仮面の上部には、太陽や月、そして怒り、妄想、欲望、傲慢、嫉妬という五毒に打ち勝つことを象徴する五つの髑髏の形が描かれることもあります。

ツァムの登場人物の中には、モンゴル独自のキャラクターも存在します。特に「ツァガーン・ウヴグン(白い老人)」は、長寿、知恵、豊穣、自然との調和を象徴する慈悲深く賢明な人物であり、他の仏教国では見られないモンゴル固有の役割です。彼はしばしば観客と直接交流し、人間と神聖な領域の仲介者として、また永遠の生命サイクルの象徴として描かれます。ツァムの舞踊の動きは、身体を揺らしたり、頭を左右に振ったり、タントラのムドラ(手の動き)を用いたり、音楽に合わせて足を踏み鳴らしたりするなど、緻密に構成されています。宗教的なオーケストラは、イフ・ビューレー(大ラッパ)、ヘンゲレグ(大太鼓)、ビシュグール(シャウム)、ツァン(シンバル)などの伝統楽器で構成され、神秘的な雰囲気を作り出します。

ツァム舞踊は、単なる宗教的実践に留まらず、美術、鍛冶、アップリケ、彫刻、彫り物といったモンゴルの多様な芸術ジャンルを統合しています。また、仏教の教え、道徳的な教訓、善と悪の宇宙的な戦い、知恵の勝利などを視覚的に表現する教訓的な側面も持ち、人々に幸運をもたらすと信じられています。

人形劇の伝統

モンゴルの人形劇に関する具体的な学術的資料は限られていますが、その存在は現代の舞台芸術の中に確認できます。例えば、近年国際的に注目されている演劇作品「モンゴル・ハーン」では、数十人のダンサー、軟体芸師とともに、人形が重要な演出要素として用いられています。この作品で登場する龍の人形は、軽量素材で作られ、一人の人形遣いが内部から、もう一人が外部から操作することで、驚くほどリアルな動きを実現しています。監督によれば、中国の龍が蛇のような姿であるのに対し、モンゴルの龍は獅子や虎に近い姿をしていると説明されており、これはモンゴル文化における人形の表現が独自の美的感覚に基づいている可能性を示唆します。

人形劇の歴史的背景を広範に見ると、影絵芝居はアジア全域に古くから存在する物語と娯楽の形式であり、中央アジア、中国、インドに起源を持つとされています。13世紀には、影絵芝居がモンゴル軍の兵舎で娯楽として普及し、モンゴル人の征服活動を通じてペルシャ、アラビア、トルコといった遠隔地にも伝播しました。この歴史的な伝播経路は、モンゴルが人形劇、特に影絵芝居の発展と普及において、間接的ではあるものの重要な役割を果たした可能性を示唆しています。

モンゴル劇場博物館には、舞踊、サーカス、オペラ、音楽、人形劇を含む伝統的な演劇に関連する遺物や写真が展示されており、人形劇がモンゴルの舞台芸術の伝統の一部として認識されていることがわかります。現代の「モンゴル・ハーン」のような作品における人形の使用は、この芸術形式が時代とともに進化し、新しい表現方法を取り入れながらも、モンゴルの舞台芸術の中でその存在を維持していることを示しています。

モンゴルの舞踊と舞踊の多様性

起源と文化的ルーツ

モンゴルの舞踊は、その起源を古代の遊牧部族にまで遡ることができ、人間、自然、そして動物との共生関係を祝う日々の生活のリズムと深く結びついて発展しました。初期の舞踊は、土地の精霊に敬意を表し、豊かな収穫を祈り、共同体にもたらされた恵みに感謝するための儀式的なものでした。これらの舞踊は、遊牧生活の身体的な適応性と密接に関連しており、馬の優雅さや鷲の飛翔を模倣した流れるような動きが、モンゴル舞踊の独特なスタイルと美学の基礎を築きました。

モンゴルの舞踊は、その主題、身体活動、感情、そして価値観において、人々の日常生活から生まれ、深い文化的記憶を内包しています。遊牧民の生活実践、伝統的な祭り、そして身体的な模倣を通じて、集団的な記憶が活性化され、モンゴル舞踊文化の記憶が形成されます。この芸術形式は、モンゴル民族のアイデンティティと文化を継続させる上で不可欠な要素となっています。

伝統的な形式と技法

モンゴル舞踊には多様な形式と技法が存在します。

  • ビイ・ビエルゲー舞踊(Biyelgee Dance):モンゴル民族舞踊の原点と見なされており、ホブド県やウヴス県の様々な民族グループによって演じられています。この舞踊は遊牧民の生活様式を体現しており、ゲル(遊牧民の住居)内の狭い空間で、半座りまたはあぐらをかいた姿勢で演じられるのが特徴です。手、肩、脚の動きは、家事労働、習慣、伝統、そして各民族グループに固有の精神的特徴を表現します。ビイ・ビエルゲーは、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録され、モンゴルの遊牧文化と国民的アイデンティティの象徴となっています。
  • 箸舞(Kuaizi Dance):独特の民族様式を持ち、鮮やかなリズム、力強いスタイル、繊細な演技、生き生きとした特徴を持つモンゴル舞踊の重要な代表形式です。箸を小道具として使用し、舞踊表現のレベルを高める上で重要な役割を果たします。
  • ボウル舞(Bowl Dance):主に女性のソロ舞踊で、踊り手は頭に二つの杯を乗せ、音楽に合わせて腕を伸ばしたり曲げたり、体を前後に動かしたりします。この舞踊は、モンゴル女性の物静かで穏やか、かつしなやかで力強い性格を表現することを意図しています。
  • アンダイ舞(Andai Dance):ダイナミックな性質が特徴で、踊り手はエネルギッシュな跳躍と表現豊かな姿勢で舞い、カラフルなスカーフや小道具を巧みに操り、動きに象徴的な意味を加えています。
  • シャーマニズムの舞踊:「バイハイチン(Baihaiqing)」舞踊は、優雅な動きと複雑な足さばきが特徴で、地上と精神世界の調和的なつながりを象徴します。シャーマンの呪術師が流れるような回転や優雅な身振りを披露し、それぞれの動きに意味と文化的意義が込められています。

美学と象徴性

モンゴル舞踊の美学的特徴は、モンゴルのステップの生態学的環境に深く根ざしています。自然、日常生活、文化的表現の相互作用が、モンゴル民族のアイデンティティと遺産を反映する独特で活気に満ちた舞踊形式を創り出しています。舞踊の動きは、動物(馬や鷲)の動きや、風や水といった自然要素の流動性を模倣しており、力強い視覚的物語を形成し、踊り手と生態学的環境を結びつけています。

衣装と象徴性も重要な要素です。モンゴル舞踊の衣装は視覚的な壮観さだけでなく、生態学的環境と結びついた深い象徴的な意味合いを持っています。動物の皮や羊毛で作られた伝統的な衣装は、モンゴル民族と家畜との密接な関係を象徴し、土の色や自然素材の使用は、踊り手と土地や環境とのつながりを強調します。

社会的・文化的意義と伝承の課題

モンゴル舞踊は、モンゴル社会において計り知れない文化的意義を持ち、モンゴル人のアイデンティティと遺産の真髄を表現しています。複雑な動きと身振りを通じて、ビイ・ビエルゲーの踊り手は、勇気、愛、勝利の物語を伝え、口頭伝承や歴史的物語を次世代に保存しています。さらに、舞踊は社会的な絆と共同体の結束の形として機能し、人々が共通の価値観や経験を祝うために集まる場を提供します。

モンゴル舞踊の伝統的な伝承は、師弟制度や家族内での家庭教師を通じて行われてきました。しかし、現在、ビイ・ビエルゲー舞踊の伝承者の大半は高齢化しており、その数は減少しています。また、異なる民族グループに由来するビイ・ビエルゲーの独特な形式の代表者が非常に少ないため、その固有の多様性も脅威にさらされています。これは、モンゴル舞踊が、日々の生活と遊牧文化に根ざしながら、文化的記憶とアイデンティティの強力な担い手である一方で、現代化の影響に直面し、その伝承と保存において課題を抱えていることを示しています。ユネスコによるビイ・ビエルゲーの無形文化遺産登録は、この貴重な文化遺産を保護するための国際的な取り組みを強調していますが、伝統的な共同体ベースの学習と、より中央集権的な伝承方法との間の緊張、そして「真正性」の保存と現代的な文脈での進化との間の継続的な交渉という課題も浮き彫りにしています。

祭り、宗教、サーカス芸

祭り:ナーダム

ナーダム、またはエリイン・グルヴァン・ナーダム(「男の3つの競技」)は、モンゴルを象徴する祭典であり、レスリング、アーチェリー、競馬の3つの伝統的な競技で構成されます。その起源は、紀元前3世紀の匈奴時代にまで遡る古代の狩猟や戦争の慣習に根ざしています。ナーダムの競技は、中央アジアのステップでの生活に不可欠な狩猟と戦争のスキルを磨くためのものでした。

この祭りは、単純な狩猟儀式から、仏教導入後の宗教儀式、そして清(満州)帝国下の政治的祭典へと進化しました。20世紀には、ナーダムは国家の儀式として採用され、ナショナリズムと国家建設に貢献しました。ナーダムは、モンゴル人の文化、習慣、伝統、価値観、アイデンティティを、彼ら自身と世界に対して常に構築し、再構築する上で重要な役割を果たします。競技は、古代モンゴルの遊牧民、シャーマニズム、狩猟の慣習と一致する象徴的な意味合いを強く持ち、神々をなだめ、道徳規範を強化し、社会的な結束感(「コミュニタス」)を育む機能を持っています。

ナーダム祭りの儀式は多岐にわたります。開会式では、国家白旗(トゥグ・スルデ)がスタジアムに入場し、その象徴的な配置は祭りを「重要なイベント」として位置づけます。白旗はチンギス・ハーンの精神を象徴し、レスラーが敬意と勝利の儀式を行う「聖なる空間」です。大統領の演説や、チンギス・ハーンの生涯の出来事を反映した壮大な歴史的再現も行われます。

各競技にも独自の儀式があります。レスリングでは、レスラーがスタジアムに入場する際に、ライオンの力や鷲の広げた翼を表現する儀式的なデヴィフ(様式化されたゆっくりとしたダンス/跳躍の動き)を行います。アーチェリーでは、審判とサポーターが「ウーハイ」という伝統的な叫び声を使って射手のショットの質を伝えます。競馬では幼い子供たちが騎手を務め、優勝馬の賞賛を唱えた後にアイラグ(発酵させた馬乳)を馬に捧げる儀式が行われます。ナーダムは、モンゴル人が遊牧の歴史と起源を再訪し、文化的な統一性を実行し、尊重する時であり、その象徴的な重要性は、市民的、社会的、そして観光的な場面での主要な使用に現れています。

宗教:シャーマニズムと仏教

モンゴルの宗教的実践は、シャーマニズムと仏教という二つの主要な流れによって特徴づけられます。

シャーマニズムは、宇宙全体が生命を持つという根本的な信念に基づいています。シャーマンは、意識の変性状態に入り、精霊の世界と交流する媒介者として機能します。シャーマニズムの儀式には、特定の治療や癒しのために、衣装、仮面、儀式用具が用いられ、音楽、舞踊、詠唱、そして時には動物の生贄も含まれます。ドラムはシャーマンにとって重要な道具であり、その催眠的なリズムはトランス状態への導入を助けます。モンゴルのシャーマンには、東の精霊を呼ぶ「黒いシャーマン」(より過酷な儀式を行う)と、西の精霊を呼ぶ「白いシャーマン」(癒しの能力で知られる)がおり、仏教的要素を取り入れた「黄色いシャーマン」も存在します。シャーマニズムは、子供の儀式においても重要な役割を果たし、繰り返される死産や乳幼児期の死亡に直面した家族が、子供の保護と幸福のためにシャーマンやラマ僧、占い師の介入を求めることがあります。

仏教は、特に16世紀に第三代ダライ・ラマがモンゴルに到来して以来、モンゴルの芸術に深い影響を与えてきました。モンゴル人はダライ・ラマに「海(Dalai)」の称号を与え、その知恵の広大さを称えました。モンゴル仏教美術の初期の頂点は、初代ジェブツンダンバ・ホタクトであるザナバザル(1635-1723)の彫刻作品に見られます。彼の作品は、ネパール美術の繊細な細部と中国美術の柔らかな造形の影響を受けつつ、生き生きとした優雅さと顔の美しさを示しています。チベットのタントラ仏教は、儀式と視覚化を強く重視する特徴があり、これがツァム舞踊の発展に大きな影響を与えました。

サーカス芸:軟体芸とアクロバット

モンゴルのサーカス芸術は、特に軟体芸(コントーション)で世界的に知られています。モンゴルの軟体芸は、極度の柔軟性と優雅さを披露する並外れた古代のパフォーマンスアートであり、何世紀にもわたってモンゴル文化の重要な一部でした。その起源はモンゴルの遊牧生活に深く根ざしており、身体的な適応性が不可欠であったことから、古くから祭り、儀式、公演で用いられてきました。歴史的記録によれば、12世紀から13世紀以降には、宮廷舞踊として王宮で演じられていたことが示されています。

モンゴルの軟体芸師は、その並外れた可動域と、一見不可能に見える後屈、開脚、ひねりなどのポーズで際立っています。この技法を習得するには、長年の集中的な訓練、献身、そして身体能力の深い理解が必要です。訓練は脊椎の柔軟性に重点を置き、精神的な規律も同様に重要視されます。複雑な動きを安全に実行するためには、集中力と注意力が不可欠だからです。

現代のサーカスにおいて、モンゴルの軟体芸は世界舞台に進出しました。伝統的な技法と現代のサーカス要素(空中演技や特殊な器具など)の融合は、世界中の観客を魅了し続けるユニークなスペクタクルを生み出しています。モンゴルの軟体芸師は、その卓越したスキルを世界中で披露し、多くの国際的な賞を受賞し、モンゴルの豊かな文化遺産に注目を集めています。

しかし、モンゴルの軟体芸は、少数の才能ある師匠に限定されており、一般への指導や実践の普及が限られているため、現在では「脅威にさらされた遺産要素」と見なされています。この貴重な遺産を保護し、次世代に伝えていくための緊急の対策が必要とされています。

軟体芸以外にも、モンゴルのサーカス芸術は多様です。1940年に設立されたモンゴル国立サーカスは、アクロバット、体操、ジャグリング、綱渡り、動物芸、ピエロ、マジックなど、幅広いパフォーマンスを提供しています。このサーカスは、伝統的な遊牧民のパフォーマンスアートと現代のエンターテイメントを融合させ、モンゴルの舞踊、音楽、民俗学の要素を取り入れ、観客を魅了する体験を創り出しています。

表現の最前線に立つ人々:現代モンゴルの創造者たち

モンゴルの創造者たちは、文学、映画、舞台芸術の各分野で伝統を守りつつ革新を追求し、国内外で活躍しています。

文学と映画の世界を切り拓く才能たち

モンゴルの現代文学と映画界には、社会主義リアリズムの時代から現代に至るまで、多くの才能が輩出されています。

文学者

ダシドルジーン・ナツァグドルジ(Dashdorjiin Natsagdorj)は「近代モンゴル文学の父」と称され、社会主義リアリズム文学の基礎を築きました。彼の代表作である詩『わが故郷』(1933年)は、モンゴルの自然を流麗な筆致で歌い上げ、広く国民に愛読されました。現代の文学者には、P. バヤルサイハン(1959-2007)、Ts. ホラン(1969-)、G. アヨルザナ(1970-)、L. ウルズィートゥグス(1972-)などが挙げられます。

映画監督

  • Pyurevdash Zoljargal:映画専修初の留学生として日本で学び、帰国後モンゴルで映画監督として活動。「I wish I could HIBERNATE」でタレンツ・トーキョー賞を受賞しました。
  • Byambasuren Davaa:彼女の映画「Veins of the World」はアカデミー賞にエントリーされ、過去にも3本の映画がアカデミー賞にエントリーされた経験を持ちます。
  • Chao Suxue:1990年生まれの監督で、フランスで映画を学び、デビュー作「草原に抱かれて」は東京国際映画祭をはじめ各国の映画祭で話題となりました。
  • Ippei Shimamura(島村一平):文化人類学者でありモンゴル研究者。著書に『ヒップホップ・モンゴリア』があり、モンゴルのヒップホップシーンとその社会・文化的背景を深く分析しています。

舞台芸術の新たな息吹:伝統を守り、革新を追求する劇団と演者たち

モンゴルの舞台芸術は、社会主義時代の統制から民主化後の自由な表現へと大きく変遷を遂げています。

歴史的背景

1830年に最初の近代モンゴル劇場会社「シアター・オブ・ザ・ノマド」が設立されました。1926年には「人民のスタジアム」が開設され、演劇の専門化が始まったのです。1931年にはモンゴル国立劇場が設立され、ソビエト・ロシアの影響を強く受け、スタニスラフスキー・システムが導入されました。この時代、演劇は強いイデオロギー的検閲の下、国家政策を反映した作品が上演されたのです。1940年には国立サーカス、1948年には国立人形劇場、1963年にはオペラ・バレエ劇場が設立されました。

民主化後の変革

1990年代の民主化以降、文化芸術は市場経済への適応を迫られ、補助金の大幅な削減があったものの、表現の自由が確立され、民族的な題材や伝統的な形式が再評価されるようになりました。

現代の主要団体

  • Tumen Ekh Ensemble(トゥメン・エヒ・アンサンブル):伝統的な民族歌舞団として成功を収めています。
  • State Circus(国立サーカス):世界各国で公演を行い、モンゴルのサーカス芸術を世界に紹介しています。特にコントーション(軟体芸)が有名で、国際的な賞も受賞しています。
  • State Morin Khuur Ensemble(国立馬頭琴アンサンブル):国内外で成功を収めています。
  • HUN THEATRE(フン・テアトル):モンゴルの伝統民族舞踊「ビー・ビェルゲー」を現代的演出で披露する舞踊公演で知られます。日本での公演も行い、モンゴルと日本の文化交流を促進しています。

結論:モンゴルの「表現を愛する力」が示す未来

モンゴルの舞台芸術は、その歴史を通じて、遊牧文化、深い精神的信仰(シャーマニズムと仏教)、そして社会政治的変革という複数の層が複雑に絡み合いながら発展してきました。初期の狩猟舞踊や口頭伝承に始まり、近代演劇の黎明期、社会主義時代のイデオロギー的統制、そして現代の自由な表現への回帰に至るまで、各芸術形式は外部からの影響を吸収しつつも、モンゴル独自のアイデンティティを保持し、再構築してきました。

演劇の発展は、ダンザンラヴジャーによる「遊牧民の劇場」の設立から始まり、ソビエト連邦の影響下での国立劇場の制度化、そしてポスト社会主義時代における表現の自由と国際化へと変遷しました。この過程は、文化が外部からの圧力に単に受動的に反応するのではなく、能動的に適応し、時には抵抗し、最終的に独自の道を切り開く能力を持っていることを示しています。特に「モンゴル・ハーン」のような作品が国際的に成功を収めていることは、モンゴルの舞台芸術がその豊かな歴史的・文化的背景を現代的な表現と融合させ、普遍的なテーマを通じて世界中の観客と共鳴する力を持っていることを証明しています。

無言劇や人形劇に関する直接的な学術的資料は限られているものの、中国劇団の活動や現代の舞台作品における人形の使用は、これらの形式がモンゴルの舞台芸術の中で存在し続けていることを示唆しています。仮面劇の代表であるツァム舞踊は、チベット仏教に起源を持つものの、モンゴル独自の美学とシャーマニズムの要素を取り入れ、精巧な仮面と衣装、そして教訓的な物語を通じて、宗教的・文化的表現の複合体として発展しました。

モンゴルの舞踊は、遊牧民の日常生活、自然、そして精神的信念に深く根ざしており、ビイ・ビエルゲー、箸舞、ボウル舞、アンダイ舞といった多様な形式を通じて、民族の記憶とアイデンティティを継承しています。これらの舞踊は、身体の動き、衣装、音楽を通じて、モンゴル人の生活様式や精神性を象徴的に表現しています。しかし、伝承者の高齢化や若年層への普及の課題は、これらの貴重な文化遺産を維持するための緊急の対策が必要であることを示しています。

ナーダム祭りは、モンゴル人の歴史、文化、アイデンティティを凝縮した祭典であり、古代の慣習から現代の国家行事へと進化しながら、社会的な結束と国民的誇りを育んできました。シャーマニズムと仏教は、それぞれが持つ儀式、音楽、舞踊を通じて、モンゴル人の精神生活と芸術表現に不可欠な要素として存在し続けています。軟体芸に代表されるサーカス芸術は、その卓越した身体能力と精神的規律によって世界的に評価されていますが、これもまた、その伝承と保護に課題を抱えています。

総じて、モンゴルの舞台芸術は、その多様な形式と深い文化的ルーツを通じて、モンゴル民族の歴史、精神、そして社会の変遷を映し出す生きた鏡であると言えます。これらの芸術形式は、過去と現在を結びつけ、未来へと継承されるべき貴重な文化遺産であり、その継続的な研究と保護は、モンゴル文化の豊かさを世界に伝え、次世代に引き継ぐ上で極めて重要です。

モンゴルが育んできた「表現を愛する力」
逆境の中でこそ、創造性は花開き、人々の心に深く刻まれる力強い表現が生まれることを、モンゴルの歴史と文化は雄弁に物語っています。
日本で表現活動をしている私は、正直それでも大変だと思うのだけれど・・・でも平和に自由に活動できているんだなとも思います。ありがたみを感じながら、活動を続けていきたいと思うし、モンゴル行ってみたいなぁ〜!!いつか行ってみたいです。遊牧してみたいな。