「沈黙」の表現力とは何か

こんにちは、マイムアーティスト・講師の織辺真智子です。
今日のテーマは「『沈黙』の表現力とは何か」です。パントマイムは「沈黙の芸術」とも呼ばれますが、この「沈黙」が持つ力とは何でしょうか?単に音がないというだけでなく、沈黙の中に宿る深い表現の可能性について探っていきます。

音のない空間が育む集中力
パントマイムにおける**「沈黙」は、単に音が無いという状態を指すだけではありません。それは、観客の集中力を最大限に引き出し、聴覚以外の感覚を研ぎ澄ます**ための、意図的に作り出された空間です。
私たちが普段生活している空間は、様々な音で満ちています。車の音、人の話し声、音楽、テレビの音など、常に情報が溢れています。しかし、パントマイムの舞台では、その音の情報を意図的に排除することで、観客の注意は完全にアーティストの身体の動き、表情、そして舞台上の視覚的な情報に集中します。
これは、心理学における「選択的注意」の働きを促すと言えるでしょう。私たちは、ある情報に注意を向けることで、他の情報を遮断する能力を持っています。パントマイムの沈黙は、観客が「見る」という行為に完全に集中することを促し、その結果、身体の微細な動きや、そこから生まれる感情の機微をより深く感じ取ることができるようになります。まるで、雑音の多いカフェで集中して本を読むよりも、静かな図書館で読む方が内容が深く頭に入るのと同じ原理です。沈黙は、観客の心の「耳」を澄ませ、より繊細な身体の「声」を聞き取れるようにするのです。

「間(ま)」が語る物語
パントマイムにおける沈黙のもう一つの重要な側面は、「間(ま)」の表現力です。動きと動きの間に生まれる沈黙の時間は、単なる空白ではなく、感情の余韻や、次に起こる出来事への期待感を高めるための重要な要素となります。
例えば、パントマイムアーティストが悲しみを表現する際、ある動きの後に、あえて数秒間の静止状態を保つことがあります。この「間」は、観客にその悲しみがどれほど深いものなのか、そしてその感情がアーティストの心の中でどのように広がっているのかを想像させます。あるいは、何かを決断する瞬間の「間」は、その人物の葛藤や迷いを表現し、観客に息をのむような緊張感を与えます。
日本の伝統芸能、特に能や狂言においても「間」は極めて重要な要素とされています。役者の動きが止まり、舞台が静寂に包まれる瞬間に、観客は役者の内面や、その場の空気感から多くのものを感じ取ります。パントマイムの沈黙もまた、この「間」を通じて、言葉では表現しきれない深遠な物語や感情を観客に語りかける力を持っているのです。それは、まるで休符がなければ音楽が成り立たないように、沈黙があるからこそ動きが際立ち、意味を持つと言えるでしょう。

内なる声、身体の「声なき声」
「沈黙」は、「声なき声」、つまり身体が語る内なる声を引き出す表現力を持っています。言葉が存在しないからこそ、観客はアーティストの身体のすべてから情報を読み取ろうとします。
心理学者のカール・ユングは、人間の意識の深層に「集合的無意識」が存在すると説きました。これは、人類が共通して持っている普遍的なイメージや象徴の貯蔵庫です。パントマイムアーティストの沈黙の表現は、観客のこの集合的無意識に働きかけ、言葉を超えた根源的な感情や体験を呼び起こす可能性があります。
例えば、アーティストが激しい感情を身体で表現する時、もしそこに言葉があったら、その言葉によって感情の解釈が限定されてしまうかもしれません。しかし、沈黙の中での身体の表現は、観客一人ひとりの心の中に、それぞれの経験に基づいた感情を自由に喚起させます。ある人には怒りとして映り、別の人には悲しみとして映るかもしれません。この多義性が、沈黙の表現の奥深さであり、観客がより深く作品に関わることを可能にします。
このように、パントマイムにおける「沈黙」は、単なる音の不在ではなく、観客の集中力を高め、「間」を通じて物語を語り、そして身体の「声なき声」によって観客の内なる世界を刺激する、強力な表現力を持っているのです。